「晩ごはんの買物にでも行きましょうよ。私おなかが減ってきちゃったわ」
「いいですよ、何か食べたいものはありますか?」 「すき焼」と彼女は言った。 「だって私、鍋ものなんて何年も何年も食べてないんだもの。 すき焼なんて夢にまで見ちゃったわよ。 肉とネギと糸こんにゃくと焼豆腐と春菊が入って、ぐつぐつと—」 「それはいいんですけどね、すき焼鍋ってものがないんですよ、うちには」 「大丈夫よ、私にまかせなさい。 大家さんのところで借りてくるから」 彼女はさっさと母屋の方に行って、 立派なすき焼鍋とガスこんろと長いゴム・ホースを借りてきた。 「どう?たいしたもんでしょう」 「まったく」と僕は感心して言った。 我々は近所の小さな商店街で牛肉や玉子や野菜や豆腐を買い揃え、 酒屋で比較的まともそうな白ワインを買った。 僕は自分で払うと主張したが、彼女が結局全部払った。 「甥に食料品の勘定払わせたなんてわかったら、私は親戚中の笑いものだわよ」 とレイコさんは言った。 *** 家に帰るとレイコさんは米を洗って炊き、 僕はゴム・ホースをひっぱって縁側ですき焼を食べる準備をした。 *** そのうちにごはんが炊きあがったので、 僕は鍋に油をしいてすき焼の用意を始めた。 「これ、夢じゃないわよね?」とレイコさんはくんくんと匂いをかぎながら言った。 「100パーセントの現実のすき焼ですね。 経験的に言って」と僕は言った。 我々はどちらかというとろくに話もせず、 ただ黙々とすき焼をつつき、ビールを飲み、そしてごはんを食べた。 かもめが匂いをかぎつけてやってきたので肉をわけてやった。 腹いっぱいになると、僕らは2人で縁側の柱にもたれ、月を眺めた。 「満足しましたか、これで?」 「とても。申しぶんなく」とレイコさんは苦しそうに答えた。 「私こんなに食べたのはじめてよ」 村上春樹「ノルウェイの森」
by foodscene
| 2009-12-29 14:46
| 日本
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