妻と私

その晩の食事は、松本楼で取ることにしてあった。
日比谷公園の松本楼が、海軍と縁の深い西洋料理屋だったことは家内も知っていて、
テイク・アウトのカレーライスを買って来たことがある。

「九十歳の老総督のために、お嫁さんが買いに来たと、
先方ではきっと思っていたわよ」
と、そのとき家内はいたずらっぽい顔でいったものだった。

松本楼のフランス料理は、少々古風だが悪くなかった、と、
少くとも私はそう思っていた。

***

それがほとんど唯一の息抜きで、眠れようが眠れまいが
朝は六時過ぎには起床し、七時に食堂が開くのを待ち兼ねて朝食を取り、
そのあいだにランチ・ボックスを作ってもらって、
八時少し舞えには病室に到着する。
そこで夜の附添婦と昼間の附添夫である私とが交替し、
それから十時間病室にいる。

ランチ・ボックスは、バターと苺ジャムのサンドウィッチにピクルス、
それにゆで卵二個という至極簡単なもので、
私はそれを「コロスケ・ランチ」と呼んでいた。

家内と私との共通の幼時体験に、
「仔熊のコロスケ」という漫画がある。
そのなかで、コロスケが苺ジャム付きの食パンを食べている一コマが実に旨そうで、
家内も私も以前から鮮明に覚えていた。

その「コロスケ・ランチ」を持って、
附添夫の私が毎日現れる。
どうだい、面白いだろうと、私は家内の反応にはお構いなく、
勝手に面白がってみせた。

江藤淳著「妻と私」
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by foodscene | 2012-09-01 15:02 | ノンフィクション日本


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