ドアを開けると、町屋独特の驚くほど広い空間が拡がっていた。
膨大な数のグラスが並んでいるケースは、まるでバーのようだ。 カウンターの代わりに肉を焼く鉄板があった。 「いらっしゃいませ」 コック帽をかぶった老人が、亀岡に一礼する。 グラスの数とはまるで合わない客数で、萌たち一行の他には、中年の男と女のカップルがひと組いるだけだ。 「ここのステーキは不思議なステーキやで。こげ目っていうものが、まるっきりあらへん。 ぬるい温度で肉の旨味を閉じ込めるっちゅうことをしてはる。 ふつうだったらまずくなるはずやけど、どういうわけかごっつううまいんや。 いったいどういうわけやろと、いつも考えとるんやけど・・・・・・」 これはどうやら亀岡の口癖らしく、老いたシェフは「また始まった」という風に笑っている。 (中略) やがてワインとバカラのグラスが3つ置かれた。 年代もののペトリュスである。 町中の小さなステーキ屋の奥から、まるで手品のように高価なワインが出てきたのだ。 「ここは結構いいワイン出してくれるんやけど、デキャンタもテイスティングもなしという、 滅法愛想のないとこでなあ・・・・・・・」 「仕方ありませんよ。全部ひとりでやっているんですから」 やがて白い布をかぶせたトレイが運ばれてきた。 布をとると大きな肉の塊が、白と赤のマーブル模様の切り口を見せている。 「ヒレもありますけど、今日はやっぱりサーロインでしょうなあ」 「じゃ、それにしよ」 「お嬢さん方、焼き加減は・・・・・・」 「私、ミディアム・レア・・・・・・」 言いかけた萌を、亀岡が制した。 「そんなん言わんと、ここの大将にまかせとき。 そりゃあうまく焼いてくれるわ」 3つに切られた肉が鉄板の上に置かれた。 ジュウジュウと音をたてるわけでもない。 ただ置いた、という感じである。 その間に3人はワインを飲み始めた。 「ペトリュス、大好き」 千花がペロッと舌で、唇についたしずくをなめた。 「私、他のワイン飲んでも、正直言って何が何だかよくわからないの。 でもペトリュスだけはわかるわ。 だってこれ、しょっちゅう亀岡さんが飲ませてくれるんだもの」 「いやあ、そう言ってくれたら嬉しいな」 亀岡は相好を崩した。 「私もいろいろ飲み比べたけど、ペトリュスがいちばんうまいワインやと思うなあ。 女で言うてみたら、これといった癖がない、誰からも好かれる絶世の美女、というところだな」 「ふうーん、私とはちょっと違うなあ」 「そうやな、チカちゃんは確かに美人やけど、絶世というのとは違う。 だけど女はそのくらいの方が幸せやで。 あんまり美人だと、男も仕事もひいてしまう」 2人がそんな軽口を叩いているうちに、温野菜をのせた大皿が並べられ、 その上にシェフは焼き上がったステーキをのせる。 萌はこんな不思議なステーキを食べたことがなかった。 焼き目というものがまるでない。 熱によって赤黒く変色した肉塊だ。 ひとくち口に入れる。 「おいしいわ」 先に言葉を発したのは千花だ。 「肉のジュースが、しっかり中に閉じ込められてて、それがブチュッと出てくるの。 うんと焼いたステーキよりも、お肉がどこまでもどこまでもやわらかいっていう感じ・・・・・・」 「そうやろ、そうやろ」 亀岡は頷く。 気に入った答案を目にする教師のようだ。 「ここは肉を焼く常識と全部反対のことをしとる。だけどこんなにうまい。 誰かちゃんと研究せえへんかと思うけど、 ここの大将変わり者やさかい、テレビにも雑誌にもいっさい出えへんのや」 「勘弁してくださいよ。 年寄りがひとりコツコツやってる店ですよ。 マスコミなんか出たらえらいことになりますわ」 その後量は少ないけれども、ドレッシングが凝ったサラダが出、 メロン、コーヒーという順で食事が終わった。 (林真理子著 「野ばら」より)
by foodscene
| 2007-02-12 21:31
| 食堂
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