カテゴリ:ギリシャ( 16 )

のどをいためるな

僕は階下に下りてキッチンで湯を沸かし、コーヒーを作る。
そのうちに女房が目を覚ましてやってきて、
フライパンを温めてパンケーキを焼く。
今日が最後の日なので、冷蔵庫の中にのこっているものをひとつひとつ手際よく
片づけていかなくてはならない。
冷蔵庫の中にはパンケーキの粉が少しとミルクと卵が残っている。
だからこれは誰がどう考えても朝御飯はパンケーキということになる。

粉と卵と牛乳のバランスがいささか悪いが、これはまあ仕方ないだろう。
残りものを片づけるというのはそういうことなのだから。
残りもの—僕はそんなパンケーキを小さく切って口に運びながら、
ふとナポレオンの軍隊がロシアから撤退したときのことを思い出す。
いちばん難しく、いちばん得るところの少ない撤退戦。
雪原を跳梁するコサック兵。
雪嵐。砲声。

トマト食べる?と女房が尋ねる。
トマトがいっぱい余っているのよ。
食べる、と僕は言う。
トマトを切って塩とレモン汁をかけ、香草を刻んでふりかける。

コーヒーとパンケーキとトマトのサラダ、
兵士たちは凍てつく河を渡り、かじかむ手で橋を焼き落とす。
彼らはあまりにも遠く故郷を離れたのだ。

冷蔵庫にまだ何か残っているの、と僕は尋ねる。
スパゲティーとトマト缶とにんにくとオリーヴ・オイルと卵。
お米が少し、ワインが半分、ツナの缶詰。
そんなところよ。

となると昼御飯はひとかけらの疑いもなくスパゲティーのツナ・トマト・ソースということに
なってしまう。

(村上春樹著「遠い太鼓」より)
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by foodscene | 2008-06-08 23:34 | ギリシャ

EJ

それから我々はよくマリーザというのを食べた。
これは魚の中でもいちばん安い部類に属する。

大きさはだいたい4センチから6センチくらいの小魚で、
丼一杯100円くらいで買える。
これを買ってきてよく洗い、油で揚げる。
そして頭からぽりぽりと食べる。

骨がひっかかるのでいっぱい食べるとけっこう疲れてしまうのが
難といえば難だが、カルシウムも豊富だし(ヨーロッパにいると、カルシウムも意外に不足する)、
なかなか素朴な味わいのある料理で、
僕らはよくレッツィーナ・ワインの肴にぽりぽりと食べた。
本当の庶民料理でレストランでもこれを出すのは、
地元民むけのディープ・グリークなところだけだ。
観光客向けの店のメニューにはまずみあたらない。

魚の話ばかりして恐縮だが、タコもよく食べた。
地中海のタコはけっこういけるのだ。
タコは買ってきたばかりのものは固いので、軒下に吊るして干しておく。
そうするとあくる日には芯がとれておいしく食べられるようになる。
ギリシャ人はみんなタコをこういう風にして食べる。

漁師はタコをとると、生きたまま足を掴んでコンクリートにばしっばしっと打ちつけて
やわらかくしておく。
タコの身になってみればたまったものではないが、
まあこれが世のなりゆきだから仕方ない。
そしてそのタコをまた物干しかなんかにかけて1日干すわけである。
この二段階を経てタコはやっと食用に適するようになる。

僕らはこれをやはり七輪で焼いて、醤油とレモンをかけて食べる。
とても美味しい。
ただしタコを干していると近所の猫が何匹か集まってきて、
そのタコをうらめしそうにじっと見上げている。

(村上春樹著「遠い太鼓」より)
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by foodscene | 2008-06-08 23:27 | ギリシャ

クックドゥー

僕らはここでよくイカ(カラマリとという。モンゴイカはスピア)を買った。
ここのイカは柔らかくて、とろけるように美味しかった。
ギリシャ人はイカをだいたい焼いて食べるが、
とてももったいなくて、我々にはそんなことはできない。
もちろん刺身にする。

ときどきは寿司ごはんを詰めて食べたりもした。
日によって違うけれど、イカはだいたいキロ700円くらいした。
ギリシャの物価からすればけっこうな値段だ。

それから鯵に似た魚(サブリージという)を買って、
酢のものにしたり、焼いたりして食べた。
これは姿かたちは大型の鯵だが、鯵には鯖の風味も加わっているという不思議な魚だった。
これはそうしょっちゅうは上がらない。
小型の鯛(シナグリーザ、あるいはリスリーニ)は煮るか、
あるいは葱と一緒にソテーにして食べる。

その他にアナゴやヒラメやタチウオやカマスや、
実にいろんな魚がいた。
どういうわけかカマスは青山の紀ノ国屋なみに高かった。
その他見たことのない魚もいれば、わけのわからない魚もいた。

スコルピオという刺のいっぱいある不気味な魚をごった煮風スープにすると美味いときかされて試してみたのだが、たしかにこれはなかなか美味しかった。
しかし河豚と同じで、舌先にちょっとぴりっとする感触があった。
そしてあとでおなかをこわした。

(村上春樹著「遠い太鼓」より)
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by foodscene | 2008-06-08 23:14 | ギリシャ

さよなら枚方

『モニカ・バー』はモニカというドイツ人の女性の経営するバーで、
夜になるとここはミコノス在住の外国人コミュニティーの集会場みたいな感じになることが多かった。
みんな人淋しいから、夜になるとなんとなくここに集まってきて騒ぐのである。

そんなわけで、ときどき賑やかになりすぎることがこの店の欠点である
(それから便所の水があまり流れないことも)。

でもドイツ人が経営するだけあって、ドイツ風の家庭料理がなかなか美味しい。
寒い日にはよくここに来てドイツ風の熱いスープを飲み、
豆の煮物を食べ、ボイルしたソーセージを食べた。

『ミノタウロス・バー』の主人はイギリス人の女性と結婚したギリシャ人だった。
この人はジャズが好きで、渡辺貞夫のレコードを何枚か持っていて、
僕が行くと、それをかけてくれた。
シーズン・オフにはいつもロンドンに行って暮らすんだ、と彼は言った。
でも今年の夏は商売があまり良くなかったんで、
冬も開けてるんだよ。
なにしろ例のテロさわぎでアメリカ人が来なかったからね。

彼は僕に毎日少しずつギリシャ語を教えてくれた。
もの静かな男で、味でいえばこのバーのカクテルがいちばん美味しかった。
生のフルーツを使って、丁寧にカクテルを作った。
つまみは簡単なものしかないが、味は悪くなかった。

店の彼の性格と同じように、わりに物静かだった。
そしていつも適度な音量でソフトなジャズをかけていた。

(村上春樹著「遠い太鼓」より)
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by foodscene | 2008-06-08 23:06 | ギリシャ

happen!

運転手が何処かの小さな村で知り合いにワインを1本もらったところから騒動は始まる。
運転手はその村でバスを止めて車掌と一緒に誰かの家に入り、
10分ばかり出てこなかった。
我々はsのあいだバスの中で運転手と車掌が戻ってくるのをじっと待っていた。

運転手は一升瓶くらいの大きさの瓶をさげて戻ってきた。
すごく不吉な予感がしたのだが、案の定それは地造りのワインであった。

次の村で運転手はまたバスを止めた。
今度は車掌が下りてチーズを作っている家に入り、
バレーボールくらいの大きさのある丸いチーズを買ってきた。
そのようにしてバスの酒盛りは始まった。

一番前に座っていたギリシャ人のおばさんが
「あんた、あんたが飲んでるのワインだろう」と運転手に向かってとがめるように言った。

「水だよ、水」と運転手は笑って誤摩化していたが、そのうちに
「ばあさんも飲みなよ」といってグラスにワインを入れ、
チーズを切っておばさんに差し出した。

そしていつの間にか我々乗客を含めたバスの中の全員が前に集まってワインを飲み、
チーズを食べているということになってしまった。
車掌はほろ酔い加減で、鹿の皮でも剥げそうな鋭いナイフを使ってチーズを切って
みんなに配るのだが、
バスが揺れるとナイフの刃先が一番前の席に座った英国人の老夫婦の鼻先を行ったり来たりするので、彼らは肩を寄せあい、こわばった微笑を顔に浮かべつつ冷汗を流している。
運転手はもう路面なんか殆ど見てもいない。
陽気に歌をうたい、冗談を言ってがははははと笑っている。
道はあいかわらず険しく、曲がりくねっている。

しかしこの旅行を通じてこんな美味いワインを飲んだのも初めてだったし、
こんな美味いチーズを口にしたのも初めてだった。
これは誇張ではない。
本当に信じられないくらい美味しかったのだ。
もちろんワインだって上等なものではない。
そのへんの農家の庭さきで作られたようなものである。
でもこれがなにしろもう目が覚めるくらいに美味い。
俺はいままでこのギリシャでいったい何を食べ、
何を飲んできたのだと愕然としてしまうような味だった。
シンプルで、新鮮で、しかも深い温かみがあって、
大地にそのまま根ざしたような懐かしい味なのだ。

こういう味のワインは残念ながらレストランでは出てこない。
とにかく我々はおなかいっぱいになって無事アギヤ・ガリーニの町に到着した。
乗客はほっとしたような満足したような、
また同じバスに乗りたいようなもう二度と乗りたくないような、
複雑な気分でバスを下りた。
みんな運転手と車掌と握手し、肩をたたきあい、さよならを言った。

クレタというのは結局のところそういうタイプの島である。
良くも悪くも荒っぽくて、ザツなのだ。
細かいところでいちいち真剣に考え込んだりしていたら、
とても生き残っていけない。
まったくの話。

(村上春樹著「遠い太鼓」より)
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by foodscene | 2008-06-08 23:01 | ギリシャ

断食道場で

そしてヴァンゲリスは前と同じように濃いグリーク・コーヒーを作ってくれた。
昼御飯のために奥さんのマリアが作ってくれたお弁当までわけてくれた。
これはとても美味しかった。

(村上春樹著「遠い太鼓」より)
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by foodscene | 2008-06-08 22:50 | ギリシャ

みたにん怒濤のPR

土地のワインを飲み、葉の花みたいなもののサラダとお粥みたいなものとキウリと小さなタイと
スタッフド・トマトを食べる。
これはなかなか美味しかったし、安かった。
食事のあとで港をぶらぶらと散歩して9時前にホテルに戻る。
しかし我々が直感的に(というか経験的に)予測したように、
9時になってもお湯は出て来ない。

(村上春樹著「遠い太鼓」より)
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by foodscene | 2008-06-08 22:48 | ギリシャ

別れはグラデーション

久し振りに外国人の客が来たべな、という感じでおじさんが揉み手で出てくる。
この土地のワインが欲しいね、と言うと
「ならお客さん、マヴロス(黒)の美味いのがあるよ」という。
赤とか白とかロゼとかは聞いたことがあるけれど、黒なんてはじめてだ。

味見させてもらうとたしかにこれは美味しい。
まるで薬みたいにぴりっとしているのだが、腰のはいったしっかりした味である。
自家製のものらしく、汚い一升瓶に入ったワインがキッチンの床にならんでいる。
これを半リットルもらう。

それからグリーク・サラダと、スブラキ1皿と、フライド・ポテトを2皿。
フライド・ポテトは冬眠明けの熊にやりたいくらい山盛りいっぱいある。
そのあとでレッツィーナ・ワインも1本飲む。
これで700円。
しかし安いと思いませんか?

(村上春樹著「遠い太鼓」より)
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by foodscene | 2008-05-06 23:33 | ギリシャ

彗星

翌日、イヤニスのタヴェルナで昼食を食べながらレシムノン行きのバスを待つ。
隣のテーブルではデヴィッド・ボウイが疲れて年老いたような(要するに最近のデヴィッド・ボウイのような)顔つきの1人旅のイギリス人が、脂がべっとりと浮いた牛肉の煮込みをいかにも不味そうに食べている。

我々はワインとサラダだけを食べる。
バスが来たので僕は勘定を払い、1週間前から捨てようと思いつつ果たせなかったぼろぼろのナイキ・シューズを(僕がそれを捨てるたびに、どういうわけか誰かが届けてくれるのだ)紙袋にくるんでそっとテーブルの下に置き、バスに乗り込む。

(村上春樹著「遠い太鼓」より)
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by foodscene | 2008-05-06 23:27 | ギリシャ

誠の愛

僕の泊まったホテルの近くに鎚と鎌の旗をかかげた共産党の本部があり、
その1階に小さなカフェがあった。
僕はいつもそこに行って朝食を食べた。
なにしろ安かったからだ。

ホテルの食堂で朝食を食べるとひとり500円近くかかるが、
ここだと100円ですむ。

焼きたてのティロ・ピタ(チーズパイ)とどろっとしたグリーク・コーヒーとで100円なのだ。
そして朝の6時から開いている。
父親と母親と30前後の息子が3人でそのカフェを経営している。
客は漁師たちと、共産党員たち(見かけからしてたぶんそうだと思う。たしかめてみたわけではないが)。

そこでフォークナーを読みながらーところでフォークナーの小説はブルジョア的なのか非ブルジョア的なのか? ー朝食を食べる。

時々まわりで客同士が喧嘩を始める。
漁師対漁師、あるいは党員対党員、あるいは漁師対党員......who knows?
とにかく僕はここで安い朝食を食べる。

それからカヴァラはどういうわけかパンの美味い町だ。
他の町とはパンの種類もずいぶん違っている。

共産党カフェをでると僕はビザンティン時代の旧市街の坂道を散歩する。
坂道のところどころにパン屋がある。
窓からのぞくと、職人が朝のパンを焼いているところだ。
いい匂いもする。

中に入ると小学生の子供が出てきて、もうすこしで新しいパンが焼きあがるからちょっとそこで待っていて下さい、と言う。
お父さんとお母さんがかまどの前で汗をかきながらパンを焼き、
おじいさんとその男の子が売っている。
子供はナップザックを入り口に置いて、学校に行く時間がくるまで店を手伝っている
(いつも感心しちゃうのだが、ギリシャの子供たちは本当によく働く。イタリアの子供は日本の子供と同様まず働かない)。
彼は一家の中で多少なりとも英語が話せる唯一の人物であり、それを誇りにしている。
「グッ・モーニング。ワッ・キャナイ・ヘルプユー」といかにも嬉しそうに僕に話しかける。

僕はおじいさんが丁寧に紙に包んでくれたあつあつのパンをかじりながら坂道を城まで上り、
誰もいない城壁の上に立って海と町を眺め、それから賑やかな魚市場をぬけてホテルに戻ってくる。

4日間我々はこの港町に滞在した。
この町がけっこう気に入ったからだ。
4日間、我々は殆どなにもしなかった。
ただぼんやりとして、映画館に行き、散歩をし、ホテルのヴェランダに座って港を眺め、
魚市場をのぞき、市場の近くの美味くて安いプサリ・タヴェルナ(魚介レストラン)で食事をし、また散歩をした。
雨が降ると近所のマーケットでワインとパパドプロス・クラッカーをたっぷりと買い込み、
部屋に籠もって本を読んだ。

(略)

僕は鯵のグリルを食べながら2つ向こうのテーブルに座ったナイロンのジャンパーを着たおじさんの姿をノートにスケッチしている。
彼はすごくつまらなそうにワインを半リットルのみ、イカを食べ、パンをちぎって口の中に詰め込む。それを順番通りにやる。ワインを飲み、イカを食べ、パンを口に詰め込む。
猫が1匹それをじっと見上げている。

(村上春樹著「遠い太鼓」より)
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by foodscene | 2008-05-06 23:24 | ギリシャ