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葡萄が目にしみる

昼食を用意するために、ひと足でも先に帰ろうとしているのだ。
ご飯はこの春買った自動炊飯器で炊き上がっているし、
カレーは朝につくってあるから温めればいいだけだ。
それなのに多美江はいつも早足になる。
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叔母ちゃんのうちのまわりは、なにもつくっていない不思議な畑が続いていて
あまり東京という感じはしなかった。
それでも叔母ちゃんはまだ小学生だった乃里子を映画に連れていってくれたうえに、新宿の中村屋でカレーライスをごちそうしてくれた。

「ノリ、ここのカレーは東京でいちばんおいしいんだよ。
っていうことは日本でいちばんおいしいんだからね」
と叔母ちゃんは言った。

うちで食べるカレーと同じ味がしたけれども、
それでも叔母ちゃんがいうのだから日本一のカレーだと盛った。

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この地方は、どういうわけかお盆は新暦でおこなわれる。
自転車で走っていると、軒先に提灯をぶら下げた家が目につく。

乃里子は今朝食べた餅の味を思い出した。
餅に黒蜜をつけ、きな粉をまぶしたものをお盆に食べるのが、
このあたりの習わしだった。
巻き寿司をつくることもある。
このどちらも乃里子の好物だった。
「まったく、この子は太るもんばっか好きなんだから」
多美江がため息をつきながら嬉しそうにしているのも毎年のことだ。

餅のことを考えたら、急に乃里子はたえがたいほどの空腹を感じた。
昼食もとらずに自転車を走らせているのだ。
おまけに空はかっきりと青く、雲は明確に夏の雲となっていた。

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台所へ行くと、テーブルの上には焼いたサンマと漬け物、
それに「油味噌」とよばれる夏野菜の炒め煮が置かれていた。
電気釜の飯もすっかり冷めていたが、
乃里子は茶碗によそってがつがつと食べ始めた。

「わあー、ノリちゃんってよく食べるじゃん。
だからブタになるんだね」
エリカが生意気な口をきいた。

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「ふーん、小川君のうち、食堂をしてるの」
乃里子はなんとはなしに、小川君の弁当を思い出した。
乃里子の2つ前に座っているから、それはよく目に入る。
大ぶりの弁当箱に、カツやフライ、そしてサラダが彩りよく入っていて、
いかにもおいしそうだった。

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その頃、洋裁をしていた多美江は、デパートや専門店の布地売場をまわって、
よく木綿のプリント地を買ったものだ。
そしてその後、きまって乃里子にオムライスを食べさせてくれた。

もちろんオムライスは乃里子の好物だったけれど、
多美江が考えているほど好きではなかった。
多美江はその頃から乃里子の感情を倍ぐらいに誇張して考える癖があった。

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「お昼はうどんでいいら。お父ちゃんもいないし、2人っきりだから」
「なんでもいいってば」
乃里子は乱暴に2階にかけ上がった。

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「ノリ、今日は寒いだからちゃんとしとけしね」
多美江がコタツの上でご飯をよそりながら言った。
茶碗から立ちのぼる湯気が今日はいっそう濃い。
弁当箱からも同じような湯気がたち昇っている。

「おかず、卵焼きとハムでいいら?
夕べ煮た肉を入れといてやらっかと思ったけんど、
今日は寒いから脂が固まるから......」
「なんでもいい」

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乃里子はカバンをあけた。
白い布にくるまれた弁当箱が見える。
ためらいなく結び目をといた。茶色い肉汁がしみている。
入れないといったのに、牛肉の煮込みを多美江は弁当箱に詰めたらしい。

ふたを開けた。まだほんの少しぬくもりが残っていた。
黄色い卵焼きは肉汁がしみて、やや褐色になっていた。
それを口に入れる。
多美江好みの甘からい味つけだ。

飯粒を口に入れた。うまいと思った。
もう一口、大きなかたまりを口に入れる。
わざとガツガツと大きな音をたてて食べた。
ハムも口に入れる。
くちゃくちゃと歯でこねまわす。

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岩永がラーメンをすすっている。
ラーメンの他に、丼に盛ったライスも見える。
ズルズルとメンをすする音は、昼休みの教室でもやはり目立った。

最近、岩永は、校門前の喜楽軒からよくラーメンライスを配達させている。
昼休み開始のチャイムの5分ほど後に、喜楽軒の若主人が必ずといっていいほど
教室の窓の下に立っている。

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今日子が岩永に分けあたえたお菜は、乃里子の席からはよく見えない。
しかし、たぶんきれいな彩りに違いない。
乃里子だったら味が濃い茶色めの玉子焼きにするところを、
今日子はゆで玉子にして半分に割り、
レタスにくるむようなところがあった。
「ありがとう、今日子ちゃんのお弁当はホントにおいしいなあ」
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彼女たちのお気に入りはこの福味屋だった。
普通の菓子屋だったが、生徒たちが座って食べられるように
土間の片すみにテーブルが置かれている。
ここで夏には氷水も口にすることができる。

菊代は2個目のアイスクリームを食べているところだ。
乃里子はパック入りの焼きソバをとっくに胃の中に入れていた。
補習のある日は、自分たちでもあきれるほど、
いろんなものを帰りに詰めこむ。

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「私とタケオは、キールをいただいてたの。
岡崎さんはなんになさる」
美弥子が聞く。
「ドライのシェリーを」
乃里子は美弥子の隣りに腰かけながら言った。

「オードヴルは牡蠣にしましょう。今朝いいものが入ったんですって」
「それより僕はウニか何かにしてほしいな。
おととい寿司屋で食べたらうまかった。
カナッペにしてもらおう」
「それだったら、メインをウニのソースを使ったものにしてもらいなさいよ。
今だったら牡蠣を食べるべきよ」






林真理子著「葡萄が目にしみる」
by foodscene | 2011-08-28 12:50 | 日本


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