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鏡をみてはいけません 3

いい日曜だった。
私は日曜が好きだ。
日曜と青葱が好きだ。
関東は白葱の太いのばかりというけれど、
どうして青葱ができないのだろう。

私は白葱も嫌いではないけれど、
青葱の、噛むと内部(なか)がゆたかにぬめりを持っていて、
ぬるっとなる、その仄甘いなつかしい風味、
これがなんともいえないのだった。

味噌汁にもうんと入れ、
すき焼きにもどっさり、お好み焼きにも、
ひとがびっくりするくらいつまみこんで入れて焼く。

でも夏場には、さすにが青葱は売っていない。
スーパーなんかで万能葱(なんて貧寒なイメージの命名)と呼ぶ、
細い葱を使う。(私は勝手に細葱、と呼んでいる)

素麺や蕎麦の薬味にも使うけれど、
私のよく使うのは味噌汁だった。
油揚と若布と豆腐の味噌汁に、吸いくちには多すぎるほど、
青葱をこまかく刻んだのを浮かせる。

青葱の匂いがぷんと立って、ぞくぞくするくらい、うれしい。
「まえにいっぺん、関東のほうの、ごっつう太い葱をひとにもろたことがあった」
と律はいう。
「ふうん、どのくらい太いの?」
というと律は人さし指と拇指で輪をつくってみせた。
「まさかァ。それって、玉葱じゃないの?」
「いや。葱」
「おいしかった?」
「甘かった。頼子が気色悪いいうて、あまり使わんと半分ほど腐らせたらしい」
勿体ない—というのは、いわずにおく。

***

ともかく、頓にお気に入りとなった星の本を宵太は食事のときも椅子の背に置いている。
日曜の朝はまるで、
「朝食をたのしむ会」
となるので、私は前日、小さな鰈を四つ、買ってきていた。
これを煮つけて食べようというのである。

ほんとに小っちゃくて可愛い鰈だが、
新しいからおいしそうだ。
わたをとって掃除して、背中に十の字の切れ目を入れ、
煮たてた醤油とだし汁と砂糖のなかにそっと落とす。

このとき洋鍋だと底に角があるが、
この家はさいわい、何ンでも昔風のままなので、
アルミの底のたちあがりの丸い、大鍋がある。
これが煮魚にはちょうどいい。
お汁(つゆ)を魚の背に静かにかけてやり、
とっくりと煮ふくめる。

それに青葱をいっぱい散らした味噌汁。
海苔の佃煮。
これはこのまえ、スーパーの四国フェアでおいしいトマトを入手したときに、
手に入れた。
四万十川の、石蓴(あおさ)の佃煮である。
ぷーんといい匂いがする。
広告に、坂本龍馬も賞味した佃煮、とあるが、ほんとかしら。
私たちは<坂本サンの海苔>と呼んでいる。

宵太は身内かと思ったらしく、
(坂本のオッチャンて、どこに住んでるん)
と訊いていた。

それから焼いた青唐辛子(ししとう)。
これは鰈といっしょに煮つけないで、
わざと別に焼いたもの。

それから、極めつき、糠漬けの漬物。
私はちょっと前に、天満のマンションへ糠漬けの琺瑯の壺を取りに戻ったのだった。
こっちで応急につくっているのは、やっぱり味が浅いので。

しばらく留守をすると思って糠の床に厚く塩を置いて蓋をしておいた。
塩を除いてよく掻きまぜると、糠床は生きていた。
私は毎日、胡瓜や蕪や茄子やキャベツを漬けこむ。
切口もみずみずしい漬物、律はいちいち、これはうまい、これはまずいという男ではないけれど、
満足してしっかり、食べる。

彼をみていると、主食は御飯であることがよくわかる。
私は律を、御飯のように飽きない、クセのない、ほんわかした男だ、と思っていたが、
律自身が御飯好きらしかった。
いまどきの若い男の中には、顔を伏せて、
避けられない義務のように仕方なさそうに、御飯を食べる子もいるけれど、
律は全身全霊で食べるのにうちこむ。

ふだんはソーセージサンドとミルクの宵太も、
日曜は父親といっしょなので御飯を食べるのだが、
この子は私が調理しているあいだじゅう、じーっとそばについている。

「その魚、なに?」
「鰈」
「ふうん」
「ほら、目ェみてごらん」
「う」
「左・鮃に、右・鰈いうて、こっちに目がついてんのが鰈なの」
「好き好きでつくの?」
というのは、魚たちが任意で目を左につけたり、右につけたり、
するのかという意味であろう。
「ちがうわよ、神さまがそうきめるんやから、自分で鰈になるか鮃になるかを選べないのっ」
「ふう〜ん」

どんより、むしむしした天気だけれど、
うまい朝御飯を目いっぱい期待している男と、
ふわふわして非現実的だけれども、
おなかを空かしている少年のために食事を用意するのは、
私にとってとてもうれしいことだった。

口笛を吹くよりももっとたのしい、自慢のにやにや笑いが口辺に浮かんでくる。
うまいめしだぞう、おどろくな。

律は私の好きな、熱心な食べかたで、御飯に向かう。
宵太はお茶の代わりにジュースを欲しがる。

私は夏の食事には、まっ先にお茶をつくる。
急須いっぱいにそそいで、冷ましておく。
夏の食事に熱々のお茶、というのはせつないので。

そんなに気をつかっているのに、宵太はジュースを飲みたがる。
悪い癖だ。
頼子がジュースだけは冷蔵庫から誰にもことわらず出して飲んでもいい、といっているらしい。

***

昼はあっさりお蕎麦、夜はまた御飯、
ただし律はゆっくり酒を飲むから、そのあとはお茶漬けである。

***
鯉の洗いを酢味噌で食べたら、あっさりと身はしまり、
色も美しくて、私は持ってきたスケッチ帳に描きとらないではいられなかった。
味わうものやみるものすべて、身に沁みてくる。

***

「御飯粒、一粒も食べへん、てどういうわけで?」
「太る、いうて。
味噌汁つくらしたら、白湯に味噌溶きよった。
だしをとること、知らへん。大物やった」


田辺聖子著「鏡をみてはいけません」
by foodscene | 2011-09-19 15:03 | 日本


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